モノクローム写真はアート

ハッキリと言う。
モノクローム写真は誰でも簡単に撮影できるものじゃない。
最近、写真専門誌でモノクローム写真の特集を組むことが多くなった気がする。
それにはいくつかの理由があるはずだ。
1:にわかにブームになりつつある
2:或いは、ブームを仕掛ける戦略のため
3:読者からの要望が多くなった
他にも理由は考えられると思うが、概ね、こんなところではないか?
現在、確かににわかにフィルムやフィルムカメラブームであると言える。
ただ、爆発的とは言い難く、色々な形で色々な楽しみ方をしている若い人が多くなった。
しかし、その大半は「カラーネガ」であってモノクローム写真がブームか?と言えば、それには首をかしげる。
今日、私が話すことはフィルムとかデジタルとかの話ではない。
「カラー」か「モノクロ」か?と言うことだ。
だからハッキリと言う。
モノクローム写真は誰でも簡単に撮影できるものじゃない。
それは何故か?
答えは簡単だ。モノクロームは「アート」つまり「芸術」だからだ。
では「カラー」は何か?
それは「リアリティ」であり「現実」だ。
もちろん、カラー写真を芸術ではない!
などとは言わない。
ただ、モノクロームは、より一層「アート」の意味合いが深いのだ。
「モノクロって何か敷居が高くて・・・」
そんな初心者のイメージを払拭するために、特集記事が組まれるのだろう。
実際、敷居など初めから高くはない。それはデジタルカメラが登場してから写真撮影に対する敷居など無くなったも同然だからだ。
それでも「敷居が・・・」と言うのは「モノクローム」に対する尊敬の念やアートとしての地位を心のどこかで認めているからこそだ。
そして他人が発表するモノクローム写真をみて「かっこいい」と思うからだ。
しかし、少しでもカメラをいじったことのある人なら経験があるはずだ。
普通に撮影した写真をモノクロ変換しただけではかっこいいモノクロームにはならない。
それが不思議でたまらないはず。
当たり前だ。繰り返すがモノクロームは難しいのだ。
そして「アート」なのだ。それがわかっていない。
ただ、少しの経験と研究、そしてあなたのセンス(感性)で表現の基本は習得できる。
ご承知の通り、私はもう数十年と言う長い年月をモノクローム写真と過ごしている。
初めてモノクロフィルムで撮影して、自分で現像したのは中学生の時だ。もう35年も前の話になる。もちろん、その頃はモノクロームが「アート」などとは考えてもいなかった。
正直なことを言えば、モノクロームが「アート」だと認識するようになったのは、ここ10年だと言える。仕事でピアニストをフィルムで撮影するようになってから考え方が変わったし、自分でプリントするようになってからはそれが確信に変わった。
私は今まで自分のことを『写真家ではなく、カメラマン』と言ってきた。
実際にそうだったから。
でも、今は違う。
私は写真家になった。
それはアートであるモノクローム写真で自分の気持ちを、イメージを表現することに執着するようになったから。
増してや、アナログモノクロームを撮影からプリントまで自分の中で完成させるのだから、それはもう写真家の他、何者でもない。
スマートフォンの登場で一億総カメラマンとなった現代だからこそ、モノクロームで表現できる写真家が稀有な存在なのだ。
多彩な表現がある日本の四季をも、モノクロームで表現したい。
その背景には写真には見えないドラマがある。
それを見る人に想像させるのが写真家の楽しみでもある。
特にアナログモノクロームの場合は全く同じ物を作ることは物理的に不可能だ。
コピーができない。それは1℃の違い、0.5秒の違い、フィルム、印画紙、その他諸々の要素が絡み合う。だから今ここにある一枚の写真が「オリジナル」なのだ。
その希少さが「アート」なのだ。
今まで私にアナログモノクロームで撮影された人は、そうしたご自身のポートレイト写真を私から渡されているはず。今一度、その写真を見返して欲しい。
そして、できたら何時でも見られるように部屋のどこかに飾って欲しい。
あなたは「選ばれた人」なのだから。
